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黒軍 (ハンガリー) : ミニ英和和英辞書
黒軍 (ハンガリー)[くろぐん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くろ]
 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark 
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

黒軍 (ハンガリー) : ウィキペディア日本語版
黒軍 (ハンガリー)[くろぐん]

黒軍 (ハンガリー語:Fekete sereg、発音すると 「黒き軍団(ないしは連隊)」)〔漆黒の甲冑装備に因んで名付けられた可能性が高い。黒軍 (ハンガリー)#黒軍の観点とその指揮官を参考のこと)〕は、ハンガリー国王 マーチャーシュ・コルヴィヌスに仕えた軍隊に与えられた歴史上における共通の名称である。その祖先である初期傭兵軍の中核はマーチャーシュの父であるフニャディ・ヤーノシュの時代である1440年代初頭に出現している。
ハンガリーにおける黒軍の年代は伝統的に1458年から1490年までを含む。黒軍の人間は全期間に渡って金で雇われた傭兵と同じように戦い、純粋に戦場の芸術に身を捧げた。この時代の殆どのヨーロッパの傭兵は危機の時期に一般の住民から徴兵され、兵士は一年の殆どをパン屋農民煉瓦職人、その他として働いた。黒軍はこの時代に設置された傭兵の中では非常に巨大なものであり、彼等は オーストリアウィーン (1485年)、モルダヴィアの一部を占領した。
軍の中核は、元来は8〜10,000人の傭兵であり、後には持続的に30000人の規模に膨れ上がれ、侵略期間はその2倍となった。兵士達は主にボヘミア人ドイツ人セルビア人ドイツ人であり、1480年以降はハンガリー人であった。黒軍の各5番目の兵士は歩兵部隊の中で火縄銃を有していたが、この比率は当時では尋常ではなかった。中世の銃器は高価であったため銃兵をそれ以上増加させることは不可能であった。軍隊の主力は歩兵、砲兵重騎兵であった。重騎兵の機能は輝く甲冑を身にまとった歩兵と砲兵を守備することであり、その一方で他の部隊は 適当に配置され、敵軍を強襲することで驚かせた。黒軍の重要な勝利の一つにハンガリーがオスマン帝国を撃破したブリードフィールドの戦いがある。マーチャーシュ・コルヴィヌスの死は ''黒軍'' の終焉を意味していた。次の国王ウラースロー2世は黒軍を維持する費用を許可しなかったからである。
==近代的で巧みに組織化された徴兵制度==

マーチャーシュ・コルヴィヌス統治下における最初の年に、“祖父” ジギスムント・フォン・ルクセンブルクの遺産としての軍隊の徴募の構成を設置した。その軍の主力は貴族の連隊とMilitia Portalis(荘園の義勇軍)によって供給されて統制される兵士であり〔
〕、この内訳は20ごとの農奴の地区(''portae'')にて貴族が射手隊を高めて国王に貸与することが命じられたと説明されている。後にこの義務は再考され、上限は33の領地につき1人の射手隊から100の荘園につき3人の射手隊へと上げられた。これ等は農奴を有していなかったが、貴族が国家の争いの際には地方の伯爵として参加しなければならない領地を有していた。マーチャーシュの初期の統治下での傭兵の明確な数は示されていない(1463年Jajce城包囲戦の際に:en:Janus Pannoniusは傭兵軍の数について言及していない)。
非常時の場合、実際の王には急に民衆を動員する力を有する最後の機会が存在した。各貴族は、その社会的階級に関係なく、自身の武器と共に参加することを余儀なくされ、国王の私的な衛兵の皆が利用可能となった。衛兵達は何時でも召集されて15日間は戦うことが許されず、彼等の戦場での行動はハンガリー国境内に制限された。いわゆる''insurrectio'' (貴族の反乱) は徴兵の観点から時代遅れとならざるを得なかったが、それでも1809年Raabの戦いまで効果を発揮した。その主な理由として金を払うことで貴族を参加させることが残っていたからである。しかしマーチャーシュがその参加する数を次第に減らして大軍の中に呼び入れたことから衛兵は次第に黒軍の中で目立った働きのない軍団に編入された。
1459年セゲドの法でマーチャーシュは20の農奴を射手隊に加入させる基礎を復活させた(この時は人数に基礎をおいている)。男爵の''militia portalis'' は最早、地方の貴族の連隊に数えられていなかったが、伯爵の軍隊(指揮官は国王が任命した)に編入されて同様に国外に送ることが出来た。マーチャーシュは同時に''insurrectio's'' の奉仕する期間を15日から3か月に上げた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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